どう?どう?どう?
人と人が語るのは非常に大事だ。
人類はそれを重ねて現在を作り上げてきた。
先日、打ち合わせがあった。
「ところで…」と80歳が切り替えてきた。
「またか…」と周囲の空気がよどむ。
「こうこうこういう案はどうだろう?」と提案してくる。
「えぇ、いいと思います。」「新しいですね。」「面白いですね。」と周囲はあしらう。
そこからは80歳の「どう?」の連呼が始まる。
周囲はその時間に付き合う。その人が良い人だから?
それは3%くらいある。残りは
もう80歳は長くないから。
80歳が夢を語るのは全ての意味で厳しい。
もう年齢的に夢を語られても、肉体的に、精神的に、時間的に叶わない。
夢は叶えるものであって語るものではない。
夢を語られるほうはただの苦痛でしかない。
周囲は80歳と重ねるごとに気が付く。
「語るだけが好きなだけ。」
80歳の趣味は語ること。
あれはこうしたらどうだろう?これはあーしたらどうだろう?
それらを実現することなく人と話すことで優越感に浸り充実した時間を過ごしてきた。
ただその時はもうすぐ終わる。
何事も成さず、何事も変えれず終わる。
残酷なことにその事実を80歳も認識している。
だからこそどう?どう?どう?と周囲にまき散らす。
自分が何者でもないことを悟られないように語り散らす。
地頭が中途半端にいいだけになお滑稽になる。
自分が他人と同じ凡人であると受け入れればそんな事はしないのに。
何かある、何かあるはずと人と語りたがる。
また新しい夢を語りだした。
どうせ翌日には忘れてるから周囲は正面からぶつからない。
皆、大人だ。80歳よりずっと年下なのに。